精神障害と社会構造

精神障害を持つ友人が、犯罪を犯してしまった。
実刑を免れることは、できないだろう。
今日、久々に会ってきた。
ごめんね、と繰り返すやつを見て、いろいろ感じた。

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俺は、そいつを支えることはできなかった。気付くこともできていなかった。
問題がありそうだとなんとなく感じてはいたけれど、距離も遠く、俺も忙しく、日々の生活に紛れてしまっていた。

精神病患者は、閉じ込めておけと多くのひとはいう。
何をするか分からなくて、怖いからだ。
既存の、暗黙の了解とされるようなルールを理解できず、または理解できなくなって壊す存在ということもある。

そうかもしれない。
たしかに、そうなんだろう。
しかし、そうならないための努力を、社会はできているのか。


個人が病人を支えきることはできない。
だからこそ、病院があり、保険がある。
介護は、嫁という個人の努力で行えという社会の圧力はやっと減ってきた。
小児は、母親の努力で行えという圧力が、まだつよい。
そして精神病や精神障害については、社会のガンとして見られているのが現状であろう。

精神障害は、さまざまな社会的外圧で起きていることが多いはずだ。
なのに、それの解決は、個人の努力で行わなければならない。
できるか、ってんだ!!

人間社会はほんとうに進化しているのだろうか。
人間という種は、言葉を手に入れた。経験を短時間で個体の間で、グループで共有化するすべを手に入れた。それが、ここまで人間がのし上がれた理由だ。
しかし現在、世代をつなぐ鎖が壊れ、経験が上から下に伝わらなくなってきた。
悪影響が、さまざまなところにでてきている。
こころの問題も、そのひとつだろう。

精神障害が発生するまでには幾重もの過程が必要なはず。それらを防いだり、軽くしたりすることは、できるはず…
障害がおきてからも、多方面からの解決が必要。個人がそれらの知識とすべを手に入れて解決するのは、非常に難しい。
人間という種として能力を、最大限に利用することはできないのか。
個人の努力でではなく、集団の経験の蓄積で、対処できる構造はできないのか。
社会のシステムで、問題の解決や軽減はできないのか。
百獣の「神」というプライドがあるのなら。

精神病患者や精神障害者を隔離すれば問題が解決するわけでもないだろう。
障害を受けやすくサポートしにくい世の中になっていると思われるからだ。
また、そのような人たちを隔離し、生産の場から切り離すことが、社会にとっての本当のプラスなのか。社会のお荷物としてただ飯を食わせる余裕が、今あるのか。
彼らにも、生産の輪の中に入ってきてもらわなければいけないはずだ。


また、精神障害は病院にまわされる、対処できないことも付記しておく。
医学的にはなおらないし、今の構造の病院という現場では、対処しきることは難しい。
実際友人は、自傷行為を病院でしてしまい、出入り禁止になっていたらしい…
頭にくるが、しょうがないとも同時に思う。


弱者は、とことん弱者にされていく。
刑務所で、レイプもされたらしい。
睡眠薬で朦朧としているところを、看守に襲われたそうだ。
幼児退行もしばらくしていたので、本当なのだろう。密室なので、証拠も何もないし、犯罪者であり精神障害者であるから説得力もないが。

あいつとは、もうすぐしばらく会えなくなる。
7年か、9年か…
壊れていく友人に、俺は何もできない。