祖母の手記

久しぶりに,こちらに記録を残してみる


以前ずっと住んでいた家を,整理することになった。週末夜,猫の毛にまみれながらとっておくものと捨てるものとを仕分けした。その中から,死んだばあちゃんの手記がでてきた。

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寂しい思い出

 戦後生まれの人には戦中戦後のみじめな生活はわからないでしょう。着る物食べ物も少なくひもじい思いをして生きてきました。
 戦前、私たちが東京に居た時はヨチヨチ歩けた次男が、白河に来て歩けなくなり、一人なみだぐんだ母親。
 養子先では子どもがかわいそうで,父さんが東京を引き上げてきたので,由井ヶ原に開墾に入りました。
 子供をおんぶして白河市南真船までたどりつきました。追原を通って居た時母親のどなる声が耳に入りました。「お前な,『もち食いたい,もち食いたい』言ったってな,おら家にはな,もち米ひとつぶもないんだぞ」。ねだる子供よりお母さんがどんなにつらかったでしょう。
 あっちの家、こっちの家と移り住んで居た頃、防空ずきんを肩にかけ,「母ちゃん、今度はどこに行くの」と聞いた長男の顔が目にうかびます。丁度そだちざかりだった次男は食事を十分にとれなかったので今でも兄弟中で一番背が低いです。
 世界から戦争を無くさないかぎり、どこかであの悲惨な生活が有ります。
 息子や幼い孫を戦争にかりたてられるのはごめんです。

 三月十日の大空襲。空襲警報がなったとたん,頭の上をカンサイキがキューンと飛んできて焼夷弾を落としました。こわかった。下町の焼けた時などは,焼夷弾を外へ外へと落とすので,逃げ場をうしない,亡くなった人が多かったそうです。下の火を反射して,B29(爆撃機)は赤おにのようでした。
 二人の子供のうち一人を白河にあずけ,板橋の駅に身の回りの品を送るために,毎日口ゆづりで,今日はこの人まで,明日は貴女までと,口ゆずりで十日位かかって送りました。
 兄が国鉄に出ていたのでパスをもらい,父が二回にわたって着物や大事な物を運んでくれました。そのときにとろろ芋の大きいのを持ってきてくれたのを覚えています。荷造りのまま十四日後に空襲で全部焼けました。
 四月十日に養子先に戻りました。寝ている兄ちゃん(長男)のそばに行き,ほほずりする子(次男)を見て,白河に無事戻れてよかったと思いました。ちょっと遅れたら大変でした。

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生前,ばあちゃんから戦争の話を聞いたことは一度もない。
戦前の貧しい田舎の女性,小学校をでたあとすぐに屋敷に奉公にはいったばあちゃんが,死ぬ前に慣れない筆をとったのはどういうことなのか。考え込んだ。

太平洋戦争直後の東京の人口は349万人。東京大空襲の5回の空襲のうちの初回3月10日に死んだのは10万人以上。祖母が36人のうちの1人にならず,祖父も戦争を生き残ったから自分は生まれることができた。たまたま,の結果として,自分が生まれたことを意識した。